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トムヤムクンとは何か?<タイ語入門(1)

2022.04.25

「トムヤムクン」とは何か?

<はじめての人のタイ語講座(1)>

 

 

日清食品がときどき期間限定で出しているトムヤムクンのカップヌードルが少し辛くておいしい。ただし、パクチー嫌いな人は避けた方が良いかもしれない。

 

 

タイ料理の定番といえば普通トムヤムクン、グリーンカレー、パッタイあたりであろう。その中でもトムヤムクンという単語は日本人に浸透しているように思える。

 

 

タイ語の料理名には当然、意味があり、少しタイ語の造語システムを理解するだけでも料理の注文に幅を広げることができる。今回は「トムヤムクン」を分析しながらタイ語を学んでみよう。

 

 

◯トムヤムクンとは何か?

先ず、トム・ヤム・クンという単語に分かれる。

 

 

トム•••煮る

ヤム•••辛く酸っぱく和える

クン•••エビ

 

 

トムヤムクン•••「エビが入っている酸っぱ辛く煮たスープ」という意味になる。

 

 

少し単語を入れ替えてみよう。日本のタイ料理屋さんではないかもしれないが、タイに行ったら「トムヤム・タレー」を注文してみよう。

 

 

「タレー」は「海」の意味で、料理の脈絡ではいわゆる「シーフード」を表し、トムヤムタレー」とすると「いろいろなシーフードが入ったトムヤム(酸っぱ辛いスープ)が出てくる。

 

 

タレー•••海;シーフード

 

 

エビが大好物という人以外は、クン(エビ)だけよりこちらタレー(シーフード色々)の方が食べていて楽しい。

 

 

さらに、クン、タレー以外に具材を変化させ語彙を増強させよう。以下、料理全体の味などは同じで具材が異なる。あのオレンジ色のスープを思い描きながら3種のバリエーションを楽しもう。

1) トムヤム・ガイ

ガイ•••鶏肉

 

 

2) トムヤム・ムー

ムー•••豚肉

 

 

3) トムヤム・プラー

プラー•••魚

 

 

さて、次にパッタイ(タイ風焼きそば)を注文してみよう。注文時に何も言わなければクン(エビ)が入っていることが多い。トムヤムクンでエビを大量に食べた後でパッタイでもエビだとかなり飽きてしまう。

 

 

パッ(ト)•••炒める

タイ•••タイ風

 

 

そんな時は「パッタイ・ガイ」と注文してみよう。鶏肉入りのパッタイ(チャーハン)が出てくる。この「ガイ」はタイでの屋台料理の定番ガイヤーン(焼き鳥)のガイに同じ単語である。

 

 

ガイ•••鶏肉

ヤーン•••焼く

 

 

ちょっとご飯ものが食べたくなったら、カオパット(チャーハン)を注文しよう。こちらも具材を選んで言ってみよう。カオパット・プーが良い。

 

 

カオ•••ご飯

パッ(ト)•••炒める

プー•••蟹

 

 

カオパット・プーは蟹チャーハンである。

 

 

この「プー」は、カレー界の頂上決戦では常にランキングトップに君臨するであろうカレー「プーパッポンカリー」の「プー」と同じ単語である。タイで注文すると、お皿に中程度のカニが甲羅ごとズドンと鎮座ましましている。

 

 

プー•••蟹

 

 

この料理はいわゆる我々が知っているカレーとは異なり、蟹と卵と野菜をカレー粉で豪快に炒めたものであり、白ごはん(カオ・スアイ)によく合う。

 

 

カオ•••ご飯

スアイ•••きれいな

 

 

最後はデザートである。驚異的なおいしさを誇るのがカオ・ニャアオ・マムアンである。

 

 

カオニャアオ•••もち米

マムアン•••マンゴー

 

 

カオニャアオマムアンは、もち米にマンゴーを乗せて、この上なく甘いシロップをかけていただくデザートである。もち米はタイのお隣のラオスでもよく出てくる。

 

 

もち米とマンゴーにシロップ!説明を聞いただけでは誰しも「そんなん要らない!」となるが、ひと口食べてみるともうこのデザートの女王の虜になっている自分に気づくのである。料理的発想は日本の「おはぎ」と同じであろう。

 

 

最後にチャーローン(お茶)が出てくるかもしれない。しかしながら、このお茶は何か甘い。砂糖が入っているのである。

 

 

チャー•••お茶

ローン•••熱い

 

 

タイのコンビニで「普通のお茶」を買うのも一苦労。green tea no sugarなどの表記をチェックしなければならない。

 

 

いろいろと違っているように思えることもあるが、それは我々の当たり前と他国の当たり前が異なるだけであり何ら問題ない(マイペンライ)。

 

 

マイペンライ•••大丈夫;問題ない

 

 

時々、海外で過ごすことが、日本をさらに良く知ることにつながることは間違いない。

 


私たちはstudentになれるだろうか?

2022.03.04

私たちはstudentになれるだろうか?

 

4月には、studentがたくさん生まれる。少しこの言葉について考察してみよう。

 

 

英語を学習し始め、しばらくするとteachとteacherの関係性をplayとplayerなどの関係性から類推できるようになり、派生語の概念が知的に成熟する前に親戚的な感じとして捉えることができるようになる人がいる。

 

 

しかしながら、英語がかなりできる人でもwiseとwisdomやstudyとstudentの関係性に気付けない人が多い。それは派生語が作られる過程で生じるスペルの変化(見た目の印象)と音の変化(別の音)に起因する。

 

 

英語を少し学習した後で、天気の話をしていて、「曇りは英語で、なんと言うでしょうか?」と尋ねると「cloudyです。」となり、次に「では、空に浮かんでいる「雲」は英語で何というでしょうか?」という質問をすると「それはまだ習っていません。」となることが多い。

 

 

学習初期では造語システムのデータ不足でこれは当たり前のことである。

 

 

rain → rainy

snow → snowy

wind → windy

storm → stormy

fog → foggy

(    x    ) → cloudy

 

 

上記のように並べて、それでも(  x  )を類推することができなかったら少し問題ではあるが、大抵は語形成の法則性に気付ける。

 

 

ところが、現実的な問題として大学を卒業した人でもsunとsunnyを関係のない別単語だと思っている人も少なくない。これは、発音とスペルの都合上「n 」が挿入されているからで、見た目の印象が異なるからである。

 

 

同様にwiseとwisdomを別物と思っている人も多い。

free → freedom [ free + dom]

wise → wisdom [ wise + dom ]

 

 

wise / wisdom問題は、スペルも発音も異なるので、説明されなければ気付けないかもしれない。

 

 

同様に、studyとstudentの関係性に気付かないというケースも多発する。

 

 

study / studentは、由緒正しくラテン語のstudeo「専念する;熱心に求める」に語源がある。

 

 

study : stud-が語幹であり、この語幹に接尾辞「-y」を付けてstudyが形成されている。

 

 

student : ラテン語の動詞であるstudeoを現在分詞にすると、studens, studentis となる。現在分詞というものは形容詞であり、形容詞は名詞としても扱えるので、studentは英語でもそのまま名詞になっている。

 

 

したがって、studentとは「熱心に何かを求めて自分磨きをしている人」という意味である。

 

 

イタリア語経由にはなるけれどstudio「画家などの工房、音楽家などの仕事場」も同じ語源であることは感じ取れるであろう。

 

 

そういうわけで、私たちは一生student でなければならないということになる。ちょっと知ってるだけで威張り腐ったり傲慢になったり上から目線になったりしないようにするために。

 

 

私たちの知識などは所詮どんぐりの背比べだ。人はどんなきっかけからでも学べばそれでよい。

 

 

So keep on playing those mind games together .

Faith in the future, outta the now.

Yes is the answer, and you know that for sure.

 

 


語学学習の目的とcarpe diem

2022.02.18

語学学習の目的とcarpe diem

 

呼吸というものが「吸う」と「吐く」から成り立っているように、読書というものは「読む」と「書く」で成り立っているように思える。同様に会話は、「聞く」と「話す」で構成されている。

 

 

「読む・書く」と「話す・聞く」は何が違うかと言えば、前者が1人の沈黙の行為であるのに対して、後者が2人の発話行為である。

 

 

したがって「読む・書く」と「話す・聞く」の2つのペアはかなり異なった行為であり、たとえば書くことが得意な作家が話すことが得意とはならない。

 

 

明治時代以降の私たち日本での語学教育は専ら「読む」ことに焦点が当てられてきた。文明開花の名の下に優れた西洋の文化を取り入れる必要があったのだろう。現在まで語学教育の基礎はずっとここに置かれている。

 

 

漢文や古文、ラテン語、古典ギリシャ語、ヘブライ語、アッカド語などの学習は「読む」が中心で然るべきだ。なぜなら「漢文」で会話する人はいないからだ。

 

 

ところが、私たちの日常語である日本語や英語などの現代語は、言語それ自体が内包する神秘性の他に、日々使用する道具という一面がある。ナイフやホーク、箸と同様に使用される必要がある。

 

 

語学学習の目的は、人それぞれであり、さらに言えば目的などなくてもよい。学習のプロセスそれ自体を楽しめれば本当はそれでよい。

 

 

世の中は結果至上主義が幅を利かせているので、プロセスの大切さを理解してもらうことは大変なのだ。誰もが結果ばかりを追っている。

 

 

しかしながら、一人の人間のスタートが誕生だとするなら、その人間の結果は死ということになる。結果ばかりを大切がる人は、人間の誕生から死までのプロセスをすっ飛ばして死にばかり目を向けていることになる。それがいかにアホなことかは誰の目にも明白であろう。

 

 

語学学習という一括りの言葉は存在するけれど、自分とその言語の関係性にもう少しピントを合わせ、自分がどうしたいのかという問いかけが必要でもある。

 

 

もちろん試験のため、という理由でも問題ないけれど、プロセスを楽しむことができれば更に良い。同じことが受験などにも言える。

 

 

合格さえすればそれで良いと思うから不正が蔓延る。金さえ儲かれば良いと思うから詐欺が横行する。全てプロセスの大切さが蔑ろにされている。

 

 

私たちは毎日毎日、子供たちにマイナスの言葉をぶつけていないだろうか?毎日毎日。「勉強しないと偏差値の高い学校に入れないぞ!」

 

 

こんな小さなマウント合戦にこだわっているのは一体誰なのか?本当に子供たちの幸せを思った優しい気持ち?それとも我々の貪欲なエゴ?

 

 

その目標達成のために毎日(プロセス)を犠牲にしていないだろうか?親も子も。もしかしたら1日の大半、嫌なことを言って過ごしていないだろうか?

 

 

人間は人に言われた言葉は忘れるかもしれないけど、それを言われた時の感情は決して忘れないものだ。マイナスの感情はマグマのように心の底でぐらぐら煮えたぎり噴出の時を待っている。

 

 

できることから始めよう。優しい言葉を探そう。気持ち良い言葉を使ってみよう。一日いちにちを大切に丁寧に過ごそう。これがラテン語のcarpe diem の意味である。「今という時を大切にせよ」

 

 


「類別詞」について

2022.02.03

「類別詞」について

 

 

 

日本語話者には全く意識にのぼることがなく、外国語として日本語を勉強中の人には厄介な文法システムの一つに「類別詞」がある。

 

 

「類別詞」はアジア系の言語とアメリカ先住民の言語に現れることが多い。

 

 

日本語では、「〜個、〜人、〜枚、〜匹、〜羽…..」などが類別詞であるけれど、おそらく私たちはほとんど考えずに適当に使っている。

 

 

他の外国語の学習で「類別詞」に接して初めて自分達の言語の特性を意識する。

 

 

ここではタイ語を例に挙げ、個別に類別詞の用法をほんの少し眺めてみよう。

※タイ語は、全てカタカナで表記。実際の発音は極めて難しい。このカタカナをただ読んでもタイ人には通じません。

 

 

 

 

◯タイ語の類別詞

 

 

1) お菓子を数えるときには、「アン」という類別詞が使われる。

日本語:お菓子5個

タイ語:カノム・ハー・アン

(カノム=お菓子、ハー=5)

 

 

2) 人を数えるときには、「コン」が使われる。

日本語:3人

タイ語:サン・コン

(サン=3)

 

 

3) 回数を示すときは、「クラン」。

日本語:2回

タイ語:ソン・クラン

 

 

4) 動物や服を表すときは、「トゥア」

日本語:犬4匹

タイ語:マー・スィー・トゥア

(マー=犬、スィー=4)

 

 

5) 本を表すときには、「レム」

日本語:本6冊

タイ語:ナンスー・ホック・レム

(ナンスー=本、ホック=6)

 

 

ここまでは、日本語の類別詞とほぼ用法が同じであるが、日本語とは異なる使い方がタイ語にはある。

 

 

1)の「アン」を使って眺めてみよう。

 

 

a) 既に確認した使い方は、ものを数えるときの用法。

日本語:お菓子5個

タイ語:カノム・ハー・アン

 

 

b) 「この〜」など、対象を特定する用法。

日本語:このお菓子

タイ語:カノム・アン・ニー

(ニー=この)

 

 

c) 形容詞が名詞を修飾する場合

日本語:大きいお菓子

タイ語:カノム・アン・ヤイ

(ヤイ=大きい)

 

 

 

 

日本語の類別詞を眺めてみよう。

 

 

ものを数える時は、「ひとつ、ふたつ、みっつ」などの「-つ」が筆頭に挙げられるであろう。その場合に単語の形成が行われる一つ一つの構成要素を意識してみると面白いかもしれない。

 

 

ひとつ=ひと・つ

ふたつ=ふた・つ

みっつ=みっ・つ

 

 

今度は、類別詞「-り」を使って人間を数えてみよう。数字が増えると類別詞が変化する謎が垣間見える。

 

 

ひとり=ひと・り

ふたり=ふた・り

みっり=みっ・り???

さんり=さん・り???

さんにん=さん・にん

よにん =よ・にん

 

 

文法は慣用に基づくのが原則であり、必ずしも数学のように割り切れないのが面白い。

 

 

よく使う日本語の類別詞

 

 

1 「-つ」ひとつ、ふたつ

2「-リ」ひとり、ふたり

3「-きょく(曲)」いっきょく

4「-さつ(冊)」いっさつ

5「-こ(個)」いっこ

6「-そく(足)」いっそく

7「-けん(軒)」いっけん

8「-ひき(匹)」いっぴき

9「-じょう(錠)」いちじょう

10「-めい(名)」いちめい

 

 

日本語の類別詞は、まだまだ沢山ある。普段は使わないようなものもある。

 

 

たとえば、神話などの論考を読むと神や女神を数えるために使われる類別詞は「-はしら(柱)」である。

 

 

古事記に目を向ければ、「イザナギとイザナミの二柱の神が〜」というような表現に出会う。

 

 

 

 

英語の「類別詞」的表現

 

 

英語では「類別詞」のことをclassifierという。英語の中の「類別詞」的な表現は大体、以下のようなものになるであろう。

 

 

a sheet of paper

a slice of bread

a cup of coffee

a glass of water

a bottle of milk

a piece of furniture

 


「食パン」とは何か?

2022.01.21

「食パン」とは何か?

 

複合語の形成とカテゴリー分析

 

 

「食パンやメロンパンや菓子パンやあんぱんを….」と並べた時に分類の違和感を感じる人がいるかもしれない。または何も感じない人もいるであろう。ここではカテゴリーの分類に問題がある。

 

 

そもそも「食パン」とは何か、考えたことがあるであろうか?「食用のパン」であろうか?「食用の〜」の対義語は、「食用ではない〜もの」となる。

 

 

 

その場合、「食用の花」のように「食用ではないもの」がまずあり、そちらが基準であり、普通とは違って「食べることができる」という意味となる。

 

 

「食べることのできないパン」などはないから「食パン」を「食用のパン」という意味に分析することに間違いがあることになる。

 

 

もし食べることのできない「パン」が存在しているなら、国民全体がそれを認識しているほど語彙として浸透している必要がある。

 

 

たとえば、

A「ちょっとパンとってよ」

B「どっちのパンだよ?パンじゃ分からん」

A「パンはパンでも、あっちの食べられる方のパンだよ」

という会話が想定される。

 

 

次に「食パン」の対義語に「菓子パン」を置いてみたらどうであろう。少しの間「食」の意味は保留しておこう。

 

 

「菓子パン」とは「お菓子として食べるパン」という意味であろう。「食パン」と並べて次の連立方程式を解いてみよう。

 

 

◯菓子パン:「お菓子」として食べるパン

◯食パン:「 x  」として食べるパン

 

 

最終的に「食パン」という語の成り立ちを成立させるために「 x      」には「食」という漢字も使いたい。

 

 

さて、日常生活に目を向けてみよう。私たちが「食べる」のは一日3回の「主食」と、ちょっとつまむ「お菓子」というビジョンが浮かんでくる。

 

 

食べる>主食とお菓子

 

 

以上のことから、「 x      」は「主食」であり、「食パン」とは「主食として食べるパン」であることが見えてくる。

 

 

したがって、「食パン」は「菓子パン」と対立させた概念であり、「菓子パン」の下部カテゴリーに「メロンパン」と「あんぱん」が存在することになる。

 

 

 

この分析は間違っている可能性もあるが、言葉の語源を正確に知ることは極めて難しい。時代や国やその「言葉」を受け取る人によって「意味」が異なる。誰が解いてもぶれない数学より厄介であり、それゆえに言葉はより面白い。

 

 

 

人間と他の動物の違いは、言葉による複雑なコミュニケーション能力にあるとされている。

 

 

これからの時代は、ますます言葉の読解能力が必要となってくるであろう。なぜなら計算や分析などの数学的な事柄はAIが担当し、労働の単純作業はロボットが私たちの肩代わりをすることになるであろうから。

 

 

学校での数学が必要なくなるという意味ではない。数学は論理的思考を身につけるために行っている数字を使った言語トレーニングでもある。数学は試験のために仕方なくやるなどケチくさいことは言ってはならない。

 

 

私たち人間の方は、より人間的な事柄が求められる。言葉の効果的な使い方や人の話を忍耐強く聞く能力が必要になる。さらに一人ひとりの人間が一人ひとりのやり方で異なっているということをより繊細に認識していく必要がある。

 

 

人類全体のことを心配する必要はない。まずは自分、次に身の回りの人に優しくなろう。次には町の人みんなに。

 

 

✴︎日吉に「食パン」専門店が出来ました。その名は「ワンハンドレッドベーカリー」です。おいしいです。普通部通り

 

 

 


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