LINGUA MANIA ブログ

勿忘草<ドイツ語

2021.11.11

勿忘草(わすれなぐさ)<ドイツ語

 

 

勿忘草(わすれなぐさ)という花がある。「勿忘」は「忘るること勿(なか)れ」ということで、「私のことを忘れないでね」というドイツ語Vergissmeinnichtを日本語の漢文風に訳したものである。

 

 

おそらく明治時代にドイツ語ができて文学的素養のある人物、森鴎外のような人が日本語に訳したのであろう。

 

 

英語で「勿忘草」はforget-me-notという。

Vergiss (forget) – mein (me)- nicht (not)

→ forget-me-not(私を忘れないでね)

 

 

この可憐な青い花を「勿忘草(わすれな草)」と呼ぶに至った物語がドイツにある。ドイツ語の復習も兼ねてそのドイツの物語をドイツ語で読んでみよう。

 

 

Rudolf, ein Ritter im mittelalterlichen Deutschland, liebte ein hübsches Mädchen. Das Mädchen hieß Bertha.

ロドルフ(中世の騎士であった)は、ひとりの可愛い少女を愛していました。その少女はベルタという名前でした。

 

 

Einmal machten Rudolf und Berta an der Donau entlang einen Spaziergang.  Da fand Berta am steilen Ufer eine hübsche, blaue Blume. Sie wollte die Blume gern haben.

ある時、ルドルフとベルタはドナウ河に沿って散歩をしていました。そのとき、ベルタは急な岸壁のところに一輪の可憐な青い花を見つけたのでした。彼女はその花をとても欲しがりました。

 

 

Rudolf ging hinunter und griff nach der Blume. Aber er rutschte aus und stürzte in den Fluss. Weil die Strömung sehr stark war, konnte er nicht mehr ans Ufer zurückschwimmen.

ルドルフは岸壁を降りて行き、その花に手を伸ばしました。しかし、彼は足を滑らせてしまい、川へて転落してしまいました。川の流れは激しかったので、彼は岸に泳ぎ戻ることができませんでした。

 

 

Er warf Bertha die Blume zu und rief : „Vergiss mein nicht!“…  Die Strömung riss ihn mit.

Seitdem nennt man diese Blume Vergissmeinnicht.

彼はその花をベルタに向かって投げ、叫びました。「僕のことを忘れないで!」…. 川の流れは彼を飲み込んでいきました。

それ以来、人々はその花を「勿忘草」と呼ぶようになったのです。

 

参考:『メモ式ドイツ語早わかり』在間進著、三修社

 


2021.10.28

楽譜と書き言葉

 

ジミ・ヘンドリックスをマイルス・デイヴィスがセッションに誘ったとき、マイルスの音楽仲間は、「何で、あんな楽譜も読めない奴を呼ぶんだ?」と言った。

それに対してマイルスは、こう言った、「でも、あいつは音を知っている。」

 

 

いわゆる楽譜は、後の所産である。音楽はまず音があり、それさえあればそれで良い。音は掴めないし、昔は録音もできなかったから、忘れないようにその音を記したのが楽譜の始まりであり、ここに偉そうなところは少しもない。

 

 

ところが秘密めいた謎の暗号を読み解けるとそこに優越感が生まれるらしく、それを読めない人を見下すようになることがある。

 

 

現存する世界最古の言語である古代メソポタミアのシュメール語の時代も、それが読み書きできる書記官が幅を利かせた。民衆は言葉は話せるが読み書きができない。

 

 

しかしながら、「言葉」や「音」を記号化して物体に記し、それをいつでも取り出して読めるようにすると同時に私たちの記憶力も減少する。「楽譜や書き言葉」は、記憶の外注みたいなものと言えなくはない。または記憶のUSBメモリ。

 

 

古代ギリシャの最も有名な叙事詩「イーリアス」や「オデュッセイア」は盲目の詩人ホメロスによってなされたと言われている。彼はこの詩を全て暗記していた。

 

 

古代の日本で活躍した琵琶法師たちもほとんどが盲目であったと伝えられている。彼らは琵琶を演奏しながら暗記した物語などを語った。

 

 

古事記の編纂者の1人であった稗田阿礼は、目に触れたものは即座に言葉にすることができ、耳に触れたものは心に留めておくことができた、と伝えられる。

 

 

私たち人類は、どんどん進化していると人は言う。しかしながら、この進化は私たちの外側のものであり、具体的にはテクノロジーが進化しているのであって、私たちではない。

 

 

テクノロジーの進化は人々の生活の便利さをもたらし、同時にそれは私たち自身の努力の削減を意味する。私たちにとって大切なものを私たちの外側に置くことによって私たちの頭は空っぽでも大丈夫ということになる。

 

 

テクノロジーの進化に反比例して私たちの記憶力は鈍り、クリエイティブな心はしぼみ、自分で何かを始めるという大胆さは消え、誰もがコンパクトな無難な存在になる、スマホをみつめながら。

 

 

さて、私たち人間の方は進化しているのだろうか?古代の音楽は聞くことができないが、古代メソポタミアの『ギルガメシュ叙事詩』などの最古の詩を読むことはできる。

 

 

紀元前3000年の古代の人間の作品を読んでみて分かるのは、今でもじゅうぶんに楽しめるということである。同じく紀元前の旧約聖書や紀元後の新約聖書なども今も人々の心の拠り所になっている例も多い。

 

 

古代の人間の描いた人間の心を現代の私たちが読み感動を覚えるということは私たちの心は昔とそれほど変わっていないことを意味するのではないだろうか?

 

 

人間自体の心はそのままで、それを取り巻く外側ばかりが進歩すれば、当然そこに人間と環境のギャップが生じて、人の心の中に不自然な不安定感が生まれるのは当然であろう。なぜなら人間は動物であり、この本性は変えられないからである。

 

 

テクノロジーはさらに進化する。2021年現在、AIだけではなくアンドロイドも存在するし、空飛ぶバイクも存在する。また人間の脳や目に何やらチップを埋め込んだ新型iPhoneが登場するのもそれほど先ではないかもしれない。

 

 

そういうわけで私たちの心を本当に癒すのは昔からある自然なものになりそうである。

 

 


漢字の意味(日本語と中国語)

2021.10.21

漢字の意味(日本語と中国語)

 

 

銭湯に行った時などに、日本語で「小人」と書かれている場合には「大人」に対して「子供」の意味で使われているけれど、中国語では、「器の小さい人間、徳のない人」の意味で使われる。このあたりは「小人閑居して不全をなす」という成句からなんとか理解できる。

 

 

日本語と中国語での漢字の意味の違いにおいて、有名なところでは、中国語の「勉強」は「強制」の意味だったり、「新聞」は「ニュース」の意味だったり、「手紙」が「トイレットペーパー」だったりと私たちを悩ませる。

 

 

日本で使われている漢字の大部分は、もちろん中国語からの輸入であるけれど、日本の地に移植されてのち数年後に意味の変化が起こる場合がある。

 

 

通常、私たちが「邪魔」という言葉を使う場合、「妨げること」を指すが、中国語では「仏教の修行に励む者を妨げる悪魔」のことをいう。仏教用語の一つ。

 

 

「お邪魔しまーす」という表現は、整理整頓された他人の家の場を乱す「悪魔」に自分を見立てているのだろうか?いづれにせよ、「訪ねる」の謙譲語の一つとして発展していったのであろう。

 

 

ここで、私たちの生活の中に溶け込んでいる仏教用語を少し眺めてみよう。

 

 

1 挨拶(あいさつ)

もともとは、群衆が人をかき分けて進む様を表した。

禅宗において、相手の悟りの深さを見極めるための問答の意味になり、日本では転じて応答、返礼の意味になり、出会いや別れの言葉や仕草を意味するようになる。

 

 

2 大丈夫(だいじょうぶ)

もともと「丈夫」は一人前の男子を指した。

そこから健康でしっかりしている様を表すようになる。

さらに「大」という字が「丈夫」に付き、ものごとが優れている様を表現する。仏教では、偉大な人という意味で「菩薩」を「大丈夫」と表すようになる。

現代では「問題ない」ことを表すに至る。

 

 

3 修羅場(しゅらば)

インド神話における阿修羅(アシュラ)と帝釈天(インドラ)との争いが行われた場所を意味する。

転じて、それほどの激しい争いが起こる場所やその状況などを意味するようになる。

 

 

 

 

 


日常の中の外国語(4)

2021.10.14

日常の中の外国語(4)

 

 

旦那(だんな)<サンスクリット語

 

 

「旦那」という単語は、サンスクリット語のdana(ダーナ)の音写であり、その意味は「施し、布施」である。元の意味は「与えること」。

 

 

仏教的な脈絡で、寺院や僧侶に財物を施し、経済的支援をする信者のことを意味したらしい。それが時代とともに意味の推移があり、現代の意味に至る。

 

 

古代インドの言語であるサンスクリット語は、ラテン語やギリシャ語と同系列の言語であり、これにより民族的に、また文化的にインドとヨーロッパが繋がる。

 

 

◯「与える」という単語

サンスクリット語dana

ラテン語donare

フランス語donner

イタリア語donare

 

 

※それぞれ上記の単語の形は以下。

サンスクリット語dana=[語根+ana(接尾辞)]。

ラテン語、フランス語、イタリア語は、それぞれ不定詞。

 

 

日本語の「ドナー」は英語donorのカタカナ版であり、その語源はラテン語のdonator「贈与者」である。「旦那」という言葉は、臓器提供の「ドナー」という単語と言語的に親戚ということにはなるが、語源的解釈には注意が必要である。

 

 

とある岩波新書の本(「朝日新聞の折々のことば」)の中で、「「檀那」はサンスクリット語のダーナが語源。それがラテン語のドーヌム(贈り物)となり…」という記述があった。ここに語源的解釈の混乱が見られる。サンスクリット語「ダーナ」がラテン語の「ドーヌム」に直接なったわけではない。

 

 

単に関連しているという脈絡では「旦那」は「ドナー」や「データ<与えられたもの」などの単語と語源的なつながりがある、とは言える。

 

 

 

 

1786年、英国のサンスクリット語学者が言語学史上、有名な講演を行う。彼の名はウィリアム・ジョーンズ。

 

 

彼はこの講演の中で、インドのサンスクリット語とラテン語、ギリシャ語が似ているのは偶然の一致ではなく共通の源から発したことを説いた。

 

 

たとえば「父」を表す単語は、それぞれ以下のようになる。

サンスクリット語pitar

ラテン語pater

ギリシャ語patēr

※上記は全てローマ字で表記しているので簡単だが、実際には全て書かれている文字は異なるので、その文字が読めないなら共通性の発見はできない。

 

 

ウィリアムは、このような単語の共通性を見抜き、インドからヨーロッパに広がるそれぞれバラバラの言語は、元は一つの言語から派生しているのではないか、という考えに至る。

 

 

つまり、かつては一つの民族であった人々が移動により分散されていき、行き着いた地で各言語がさらに独自の発展を遂げていったことになる。

 

 

このインドからヨーロッパに広がる言葉の元となる言語は、それ自体が発見されたわけではなく、後に比較言語学の手法により想定され再構成された言語であり、それを印欧祖語と呼ぶ。

 

 

この想定言語である印欧祖語からサンスクリット語やラテン語やギリシャ語が派生していく。

 

 

「与える」の意味の元の想定言語(印欧祖語)の単語Xがあり、それから時が経ち、なんらかの理由で民族の移動がある。人々が行き着いた地で、それぞれの言語が独自発展を遂げる。

 

 

その結果、「与える」の意味の単語が、サンスクリット語の「da(ダー)」、ラテン語「do(ドー)」、「ギリシャ語didomi (ディドーミ)と派生していく。

※表記したサンスクリット語の形は、語根。ラテン語とギリシャ語は一人称単数現在形。

 

 

比較言語学が誕生すると、さらに比較神話学が誕生する。神話に詳しい方は、お気づきのように世界には似たような神話がたくさんある。これは一つのものから派生したという単純なものではなく、さらに心理学とも関連してくる。

 

 

次回「うちのだんなは〜」と言ってみる時、上記の歴史的背景をチラッと考えてみると、そこの敬意の気持ちが加わってくるかもしれない。

 

 


日本語入門(2)

2021.10.07

日本語入門(2)

 

 

 

日本語の「〜は」とは何か?

 

 

「象は鼻が長い」という文で、主語はどの語なのか?

 

 

ある者は「象は」が主語であると言い、またある者は「鼻が」が主語だと主張し、さらに「象は」と「鼻が」の両方とも主語であると言い張る者もいる。

 

 

「俺はハンバーガーだ」

「いやいやハンバーガーは俺だぞ。お前はチーズバーガーだろ!チーズは好きじゃないんだ、俺は。」

 

 

日本語の「〜は」という言い方は、「主語」を表す表現なのだろうか?そもそも「主語」とは何か?上記のような日常的な表現は、ダメな日本語なのだろうか?

 

 

英語を学習し始めると日本語とのギャップに相当悩まされる時があり、どうしても日本語にこだわりが強い人は、英語が好きにはなれないという人も多い。

 

 

A「私は、生徒です。」

B「私は、ハンバーガーだ。」

C「花は、好きです。」

D「ポテトチップは、太るよ。」

E「玄米は、太らないよ。」

 

 

中学1年生の初めにAを学習する。当然、Aを基準にB〜Eを考えることになる。

 

 

日本語的な発想で上記の日本語をA基準に英語にすると、とんでもない英文ができてしまう。逆に、英語的発想に慣れると今度は日本語はあいまいであると言い始める人がいる。

 

 

状況依存に頼らずに、しかも機械的に「〜は」の問題を解決する一つの方法は、「〜は」を英語の「as far as A is concerned 」と捉えることである。これは、日本語にすると「Aに関して言えば」程度の意味。言葉や理論にするとややこしいが、私たちは直感的にこれを行っている。

 

 

「主語」の定義を「文法上、述語に対してそれが表す動作や状態などを表す動作主である語」とすると、日本語の「〜は」は必ずしも「主語」とは言えない。

 

 

いわゆる「文法」というものは、ラテン語と古典ギリシャ語の文法を基礎とし多少の修正を加えて各外国語に応用、発展してきたという経緯がある。

 

 

 

ところが、世界の言語は、どれもラテン語や古典ギリシャ語と同じような文法法則では説明できない言語も多々ある。それにも関わらず、日本では、なんでも欧米のものが「良い」と思われた時代があり、言語も例外ではなかった。

 

 

冗談ではなく本気で、日本語は「あいまい」だから廃止せよと唱える者もいる。

 

 

 

明治時代、初代文部大臣の森有礼のように日本語を廃止して、ハワイアンピジン語のような英語に置き換えようと考える者まで現れてきた。

 

 

志賀直哉も日本語は不完全で不備であるから文化の進展が阻害されていると主張しており、日本語を廃止してフランス語に置き換えるべしと述べた。

 

 

このような主張をする者は皆、かなり英語やフランス語が堪能な人たちであり、その「文法」に立って眺めると日本語がなんとも曖昧な言語に見えてくる。私たち一般人も少し英語が得意になると、日本語を貶し気味になる傾向がある。

 

 

前提が間違っているとすれば、根本の解決は不可能となる。一つの文法法則や一つの文法概念が世界の全ての言語に応用可能であると言う妄想、それが問題をより複雑にしている。

 

 

 

 

各外国語には、それぞれ独自のリズムや法則性があり、全ての言語に当てはまる法則性を見つけようとすると当然そこに「歪み」が噴出することになる。

 

 

ジョージ・スタイナーは言う。

「人間の言語は、その一つ一つが独自のやり方で、世界を異なった形に写しとる装置のようなものであり、その神秘的な力を生み出しているのが、他ならぬ文法である。」

 

 

 

 


3 / 2112345...1020...最後 »